子どもたちに贈る私の流儀
子どもたちがまだ小さい頃に考えていたことがある。それは「決して親の傍に置こうなどと思ってはダメだ。出来れば社会の公器として世の中に送り出す。」日々成長していく姿を見ながら子どもの将来を真剣に思った。それには先ず親のエゴを棄てることが課題であったが、これは簡単にできない。子どもから見れば親の言うこと全てがエゴだろうし、親からいうと「おまえたちの為を思って言っているんだ。」となる。これは不滅的に平行線を辿る親子の宿命だが、私が子どもだった頃は親の言うことが全て正しいとされていた時代で、文句を言おうものならゲンコツの一つも飛んでくる<鉄拳制裁>当然の自主性が重んじられない昭和の頃だった。「人生はその人間に与えられたもので親の庇護で生きてゆくものではない。」私自身の将来を親に主張しだしたその時から親子の確執がはじまってゆく。1986年、私は親が敷いたレールの仕事を終えると自らをゼロにして、大学時代に叶えたかった理想の仕事に就くため音楽出版社が募集していた中途採用の面接に赴く。当時の面接内容はもう覚えていないが、自分で書いた70ページ余りの短編小説と作詞作曲して自ら歌った自作テープを中央の面接官に渡した記憶だけが残っている。その時面接官に言われた言葉が「ほー、君はクリエイティブなことが出来るんだ。」親にも褒めてもらえなかった自分の作品を他人が褒めてくれる、私は心の底から喜んだ。後日補欠扱いながら合格の通知が送られてきたときは一人で乾杯したが、業界仕事の大変さは不勉強も手伝ってか入社早々私を自己嫌悪に陥れる。特に人間関係には悩まされたが「おまえがそこにいるだけで気に入らない。」先輩社員の人格苛めは半端ではなかった。来る日も来る日も止まない言葉の苛めは段々重役たちの耳にも入る。私は心の中で「そろそろ辞める潮時かな。でもチャンスが来たと捉えた方がいいのかも知れない。」思い立ったら即実行する癖は変わらなかった。入社1年後の1987年、私は音楽出版社に辞表を提出してフリーランスになったが、仲間達は「たったの1年でフリーに転向したおまえのところに仕事なんかくるわけない。」無謀だと笑われた。しかし、それから1年後の1988年、音楽出版社で出会った業界人との繋がりを最大限に利用した私は小さな音楽制作会社を起ち上げるまでになった。今思うと先輩社員の苛めが自身のマインドに火を点けてくれたものと感謝しているが、若干の遠回りは否めない。というわけで、人生を逆算して考える生き方を子どもたちに授けよう(これがエゴだと言われるんだな。)と只今奮闘中の私、このドタバタな経験が彼等の人生にプラスになってはくれればと願うのだが、いつの世も親のキモチは変わらない・・・。
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