森田童子と彼女のポスター
1977年春、進学(実は浪人で予備校)のために上京した私は18歳になったばかり。当時、東京で看護婦長の仕事をしていた伯母に連れてこられた川崎駅は、見た事もないプラットホームの数にショックを受けます。長い階段を降りて西口の改札を抜けると、東芝の工場が歩道に沿って連なる工業街の夕方の空は見たこともない赤褐色で、工場壁の上に張り巡らされた有刺鉄線の下を伯母の後についていく私の頭は思考停止状態。「さ、今日からこの食堂が経営するアパートで勉強頑張るんだよ」伯母の言葉に我に返った私の前には木製の古ぼけたアパートの玄関ドアが半開きに空いた安普請に二度ショック。夫婦が経営する食堂の裏にあるアパートは、共同水道、共同トイレの長屋のような佇まいで、学生ばかりを集めた二階の4畳半は、裸電球だけが眩しい大正ロマン的な部屋。田舎者で何一つ経験のない私でしたが「まずは挨拶だな」とばかり、隣の部屋をノックすると「ああ、新しく入居した人だね」メガネをかけた小太りで長髪の男性が笑顔で迎えてくれました。蒲田にある日本工学院の専門学校生だという東北訛りの男性は、世間話をしながらも部屋の中を見せてくれます。入っていきなり私の目に飛び込んできたのが壁に貼ってあったモノクロの大きなポスターに「この人誰ですか?」何気に聞くと「森田童子を知らないの?」彼は不思議そうに私を見て、森田童子の楽曲を聴かせてくれたのですが、如何せんその頃に聴いていた音楽と趣味が違っていた故なのか、私の琴線に触れることはなかったのです。あれから40年後、シンガーソングライターの森田童子さん(享年65歳)が4月24日、心不全のため自宅で死去していたことが12日明らかになりました。森田さんは1975年のデビュー後、76年「ぼくたちの失敗」が17年後の1993年、TBSドラマ「高校教師」の主題歌となり、約100万枚の大ヒットを記録します。しかしその10年前の83年に音楽活動を休止していた森田さんは、自身の楽曲が売れているにも関わらず活動を再開することはありませんでした。40年前に彼女のポスターを見た私の印象は、同じ1975年にデビューした九州出身の山崎ハコさんと声質が似ているシンガーソングライターの1人でしたが、東京出身だということを知ったのはずっと後になってからでした。彼女の歌詞は「モラトリアム」だという指摘がありますが、18歳のころがまさに「モラトリアム」だったのに、森田童子の歌が心に沁みなかったのは、私の心の琴線が只々幼かっただけでした。ドラマ「高校教師」最終回のエンディング場面。
https://www.youtube.com/watch?v=9CJ4pxNuNRI
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