スピンオフしてみます
映画「クライマーズ・ハイ」という邦画をご覧になった方はたくさんいると思いますが、1985年の飛行機事故は国内を凍りつかせました。当時、私は大学を卒業した後、自分で内定を得ていた就職先(広告会社)を、父親に強制的に諦めさせられ、自らの意思とは正反対である石油元売の研修生となり、消極的な仕事生活の研修最終年の春を終えていました。実家には資格試験の勉強が残っているとしながら、もう無職になって5か月が経っていましたが、私にとっては「もう一度業界に挑戦する」との意思確認に十分な時間でした。腹を括ってしまえば、後戻りできません。実家はどうせすぐ戻ると考えていたでしょう。私は片っ端からリクルート就職情報誌を買いあさり、条件の合う会社を探します。でも世間はそう甘くありません。いつのまにか、心が萎えていたのでしょう、さらに2か月ほどプー生活を経験、しかし、明日の見えない日々に恐れをなした私は、秋風の吹く頃に、ある就職情報に掲載されていた音楽出版社の募集記事を見つけます。面接を受けると、運よく合格(後に補欠合格と聞きました。また資格試験にも合格)となり、中途入社の形ではありますが、マスコミに潜り込めたのでした。入社早々、早速レコード会社の営業です。この出版社にどれだけ企画書を書かされたことかわかりませんが、後のHMVイベント台本作成の基礎になったのは言うまでもありません。(画像は92年HMV池袋トークショーより)
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